織田信秀 (侍従) (Nobuhide ODA (jiju [a chamberlain]))
織田 信秀(おだ のぶひで)は、織田信長の六男。
祖父織田信秀と同名。
幼名は大洞。
通称は三吉、三吉郎。
官位は従四位侍従。
正室は稲葉貞通の娘。
子は織田重治、虎法師、西尾氏教室。
生涯
生誕
元亀2年(1571年)頃の誕生という。
母は所領・姻戚関係などから稲葉氏息女ではないかと見られているが、不明である。
幼名をセットで名付けられたと言われる織田信高(幼名小洞)の母を、通常興雲院とするため、興雲院との説もある。
父織田信長より美濃国揖斐地方に所領を与えられた。
所領は信長ではなく、当時同地を所領として与えられていた稲葉一鉄から信秀の母に分与されたという説もある。
天正10年(1582年)の本能寺の変の際は美濃の仏照寺に落ちて難を避けた。
元服は天正11年(1583年)ごろとされる。
侍従任官
信長の死後、豊臣秀吉が権力を掌握すると稲葉一鉄の口添えによって秀吉に仕え、甥で織田氏当主の織田秀信や外戚である六角義郷、稲葉貞通(曽根侍従)らとともに取り立てられた。
天正13年(1585年)7月、義郷らとともに従四位侍従に任じられる。
このころ、正室玉雲院稲葉氏が輿入れしている。
『稲葉家譜』によると玉雲院の母は信長の妹であり、玉雲院は信秀とは従兄弟の関係になる。
天正14年(1586年)2月、侍従任官の礼物として白銀十枚を朝廷に献上した。
4月の後陽成天皇の聚楽第行幸に際しては秀吉の牛車の後ろに従い、他の大名衆とともに忠誠を約する起請文を提出した。
同年、信長の姉妹の子で従兄弟にあたるクマノスケ(中川秀休か)なる者と共に大坂で受洗、キリスト教に入信した。
洗礼名はペトロ。
生母は受洗を怒ったものの、これを諭し逆にキリスト教の理解者にしてしまったという逸話が残る(ルイス・フロイス『日本史』)。
天正15年(1587年)、九州征伐に兵を率いて従軍している。
文禄年間
文禄・慶長の役にも「うしろそなえ衆」として300人を率い、肥前国名護屋城に駐屯している。
所領石高は不明ながら、この軍役動員を根拠として、2~5万石級の所領を得ていた可能性が指摘されている。
のち揖斐3万石を領有した西尾光教の外孫西尾氏教に娘が嫁いでいる。
晩年
信秀の晩年については『織田家雑録』によれば、晩年は剃髪し、浦坊(戒名としては珍名の部類に入るらしく、洗礼名を音訳したものとの説がある)と号した、文禄年間、京都でハンセン病のために病死したとされる。
死後は京都の大徳寺総見院に葬られた。
法名は芳徳院高厳照公。
官歴
※日付=旧暦
1585年(天正13年)
- 従四位侍従
子孫
正室稲葉貞通の娘との間に重治、虎法師、西尾氏教室の三人の子を儲けたが、重治は所領を相続せず、大名家として存続することはなかった。
次男虎法師は僧となったが、修行中に賊徒に襲われて殺害されている。
重治、虎法師とも子はなく、男系は断絶したが、西尾氏教に嫁いだ娘は西尾盛教らの子を生み、女系の血統は旗本西尾氏(揖斐西尾氏分家、4400石)に残った。